フランス革命記念日を2018年7月22日に長野で祝う [2018.07.22]

太田尚枝

私は何年巴里祭に出席していなかったのだろう。
20年前長野オリンピックと共に産声を上げた日仏協会の巴里祭は、色々なところで開催させてもらってきた。会員さんのレストランだったり、元事務局長のあぜくら山荘だったり、小布施でも上田でも開催された。
今年は丁度7月14日が土曜日だったので、てっきりこの日の開催だろうと思っていた。また行けない・・ところが、その前の週にメールが届いた。22日日曜日のお昼に犀北館。という訳で、恐ろしく久しぶりに出席させていただいたのだ。

それにしても今年の長野の夏は連日の酷暑で、命に係わると困るのでクールビズなど何処へやら、がんがんクーラーの効いた別天地で杉浦さんのご挨拶に続き、滝沢会長のご発声で始まった。
料理は大皿、お取り分けだったのと、空腹に負けて初めのラビオリを食べすぎたせいで(フランス料理でアントレにパンをつい食べすぎてしまうのと同じだ)最後はかなりスピードダウン。それでも懐かしい方や、初めてお会いする方とのお喋りは尽きなかった。

ところで、会長も話しておられた。私も常々思っていた。何で7月14日を巴里祭と言うのだろう。これはルネ・クレール監督の映画Quatorze Juilletが邦題「巴里祭」として公開、ヒットしたためで日本だけの呼び名である。
7月14日はバスティ―ユ陥落の日だ。C’est une révolte? と尋ねたルイ16世に、Non, Ce n’est pas une révolte,c’est une révolution と側近が答えたという話はあまりにも有名である。バスティ―ユ陥落の翌年、革命軍総司令官のラファイエットは、青、赤、白の三色旗を提案し、4年後に現在のフランス国旗となっているが、青と赤はパリ市の紋章の色、白はフランス王家の色で、当初は王家との和解を象徴していた筈だったのだ。ところが革命2年後、王家は市民を捨て国外逃亡を企て失敗。王妃の実家であるオーストリアを初め国外逃亡していた亡命貴族は王政を護るために軍隊を派遣すると革命政府を脅迫する。革命体制維持の必要性からついに革命政府はオーストリアに対して宣戦布告、革命戦争が勃発したのである。プロイセン軍がフランス国境内に侵入すると革命政府は祖国の危機を全土に伝え、それに応じてフランス各地で組織された義勇軍がパリに集結、その時兵士の士気を鼓舞するために歌い広められたのが、La Marseillaise である。1795年に正式にフランス国家となった。
という訳で本来7月14日はフランスにとっては国民の結束を確認する日であり、共和国フランスの誕生を祝う日であり、フランス軍を鼓舞する日でもあるということで軍事パレードが行われるのであろう。
私達もこの会の最後にLa Marseillaiseを皆で歌ってお開きになった。

それにしても巴里祭の意味も知らないで、やれ暑い日にはシャキッと冷えたシャンパンが良いとか、やれ本場のフランスパンは美味しいとか言っている日本人の何と多いことか。何も考えないでボーっと生きているとチコちゃんに叱られますよ。